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もっと知りたい!「鶴間」~街の歴史編~

「地元密着!」を合言葉にお得なマンション・住宅情報をお届けしている「センチュリー21中央ハウジング中央林間店」がお送りする「もっと知りたい!」シリーズも、ひとまず最後となる「鶴間駅」に到達しました! これまでも「鶴間」という地名は、このシリーズでも何度も取り上げてきましたが、今回は街の歴史を踏まえつつ、東京・神奈川を「最小限」股にかけた「鶴間」という地名の謎にも迫っていきますので、どうぞお楽しみに。

 地名に隠された「豊かな土地」の謎を追え! ~「鶴間」謎解き編①~

どこからどう見ても、「この『鶴間』という地名には動物の「ツル」が関係する」、というと「見ればわかるよ!」という声が帰ってきそうですが…。
しかし、この動物の「ツル」、雑食性で鳥としてはかなり大型の部類に入るため、「膨大な量の餌を必要とする動物」だということはごぞんじでしょうか?
そのため、「鶴」がついた地名は、ほぼ「豊かな自然・生態系」を持った場所だった、という説があるほど。(地名にあるからといって「実際に鶴が飛来していた土地」とは限らないため、例外もあります)
この「鶴間」の場合、古来より鶴が多く飛来し、その姿がまるで「舞い」を踊るかのように見えたことから「鶴舞(の里)」という名前で呼ばれたことに由来しています。
実際に、現在相模原市の「上鶴間」、大和市の「下鶴間」、そして町田市の「鶴間」という広大なエリアにまたがって存在していた「鶴間村」があったのは、遺跡などにより「古くから人が住んでいた」とわかっている「相模野台地」であり、前述の説の条件を十二分に満たす場所です。
中でも、鎌倉街道の宿場町として栄えた現町田市「鶴間」と並び、富士山とセットで登ることが推奨されていた「大山」へ向かう「大山道」の宿場町として繁栄したのが、現大和市の「下鶴間」でした。
今回取り上げる「鶴間駅」はこの「下鶴間」から名付けられたもの。
しかし、なぜ「下鶴間」が本家「鶴間」を差し置いて駅名を勝ち取ったのか?
次のセクションではその謎に迫ってみましょう!

 なぜ「下鶴間」が「鶴間駅」を勝ち取ったのか? ~「鶴間」謎解き編②~

このサブタイトルの謎解きは、行政・小田急をはじめとするさまざまな人々の思惑をひとつひとつ解きほぐすことで進めて行きましょう。
小田急江ノ島線「鶴間駅」が開業したのは、時代が昭和に入った1929年(昭和4年)のこと。
この当時、この駅は住所的に「神奈川県高座郡大和村」という状態でした。
しかし、それ以前は「鶴見村」と名乗っており(1891年(明治24年)に改称して「大和村」に)、駅発足当時はかろうじて「大和村下鶴間」だったことから「鶴間駅」の栄冠を勝ち取ったわけです。
「鶴見村」と聞いてひょっとしたら?と思った方もいるかも知れませんが、残念ながらハズレ。現在の「横浜市鶴見区」の元となった「鶴見村」とは別の「鶴見村」でした、なんだか紛らわしいですね。
問題が発生したのは、その後のことでした。
駅ができてから数年後の1930年代後半、突如軍の要請により「大和村」は、相模原軍都計画に巻き込まれますが、合併寸前で計画から離脱、残った8町村が合併し新たに「相模原町」が発足(1941年(昭和16年)のこと)するのです。
仮に計画通りに進んだとしたら、現在の大和市そのものが「大相模原市」の一部になっていたかもしれない状態だったわけですが、この状況を数年前から察知していた小田急は、1938年(昭和13年)にいち早く現在の「小田急相模原駅」である旧「相模原駅」をデビューさせ、都市計画の中心地となるべく暗躍します。
このことから推測して、駅周辺の街おこしを考えた小田急が、先に「鶴間」の名前を駅名にしておいた、という狙いが見えてくるのです。
もちろん「大和村」の離脱は予想してはいなかったでしょうが、共に広範囲に
渡る「鶴間」と「相模原」の地名を早めに抑えておこうという意図を感じるのは、私だけでないと思います。
しかし、小田急の思惑は、JRの前身である「日本国有鉄道」によってわずか3年後の1941年に「半分だけ」阻まれることとなります。
「相模原町」の合併と同じくして、国鉄横浜線に「相模原駅」が発足することとなり、小田急による初代「相模原駅」は改称を余儀なくされるのです。
この「1941年」というのも、単なる偶然だとは思えない年ですよね?
もちろん、新駅は一朝一夕ではできるものではありませんから、この部分も関わった人たちの「思惑」が見て取れる手がかりになっているような気がしませんか?
この後、1943年(昭和18年)に「大和村」は「大和町」へと町制変更することとなり、後の「大和市」への道を歩んでいくこととなります。
戦後の激動の時代を「鶴間駅」有する「大和市」がどのように歩んでいったかは、またの機会にご紹介しますね。

 宿場町「下鶴間」の栄枯盛衰 ~中世交通の要所「下鶴間」①~

このように現在、皆さんが知っている「鶴間駅」周辺エリアが整っていったわけですが、このセクションでは、さらにさかのぼって「下鶴間宿」時代のこの地域の様子に詳しく迫っていきます。
前述の通り、「大山道」の宿場町として栄えた「下鶴間宿」ですが、この「大山詣で」が盛んになったのは江戸時代の中期ごろの話。それ以前は「矢倉沢往還」として知られ、8世紀頃からは「足柄道」の一部として栄えていたようです。(万葉集の中にもこの足柄道に関しての歌が存在するほど)
その後、鎌倉時代を経て、歴史の教科書でもおなじみの「足利尊氏・直義」兄弟の領地となった記録(「絃間郷」と記載)が残っていたことから、室町幕府の成立(1336年)前後に「下鶴間」も成立したのではないか?と言われています。
この当時は、移動手段が「徒歩と馬のみ」なので必然的に「街道」沿いに人が集まりますが、「下鶴間村」の場合、前述の「大山道(矢倉沢往還)」の他にも村の南北に「八王子街道」が通っていたことから、その賑わいは想像以上だったかも知れませんね。

 宿場町「下鶴間」の栄枯盛衰 ~中世交通の要所「下鶴間」②~

その後の「下鶴間宿」は、「高座郡下鶴間村」に形を変え、かの有名な「徳川家」の領地となりますが、宿場町として栄えた宿命とあってか、この頃の「下鶴間村」は「継立村」としての新たな役割が加わりました。
(1669年(寛文9年)に「継立村」に指定)
この「継立」というのは、「幕府要人や大名の移動、書状や物資の運搬など『公用』の移動・運搬において、必要な人馬を担当の村や宿場町が用意する決まりのこと」で、「継立村」はその役割の関係上、大きな経済的負担を強いられることとなります。(その代り、多くの宿泊者に恵まれるメリットはあるが)
そのため「下鶴間村」は、江戸時代中期~後期を迎える頃には、村自体が業務の煩雑さのため疲弊・衰退し、村内の宿の数も次第に減っていくようになりました。
江戸時代の著名な蘭学者・画家であった「渡辺崋山」が1831年(天保2年)に「下鶴間村」を訪れた際には、村全体の宿も20軒程度であったと記しており、当時の「下鶴間」の衰退度合いを今に伝えています。
現在も「鶴間駅」周辺には、当時の「大山街道」の面影が残っており、前述の「崋山」が宿泊した「まんじゅう屋(まんぢう屋)」の跡地などが特に有名ですが、交通の主役が人馬から鉄道・車に変わるにつれ、街も変わっていきます。
その後の紆余曲折を越えて、今なお残っているこれらの跡地に立ってみると、当時のイメージが浮かんでくるかのようですね。
そんなノスタルジーに浸ってみたい方は、現地を回ってみるのもおもしろいかも知れません。
記録に残っているだけでも、1000年近い悠久の歴史を持つ「下鶴間」。
その歴史すらも現代、そして未来へと「継立てて」いるかのように、今日もその歩みを続ける「鶴間駅」周辺エリア。
気軽にタイムスリップ気分をも味わえそうな「鶴間」に住もう!住んでみたい!と思った方は、お気軽に当店までご相談ください。

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