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もっと知りたい!「つきみ野」~街の歴史編~

「地元密着!」を合言葉に、お得なマンション・住宅情報でおなじみの「センチュリー21中央ハウジング中央林間店」がお送りする、こちらのタウン情報も今回で第3回目! 今回は「林間」エリアから離れ、東急田園都市線の駅がある「つきみ野」の詳しい街の歴史をご紹介しましょう。

実は、とあるマンガ・アニメの聖地のひとつなんです、つきみ野

地元に住む方の中でも、このタイトルを見て驚く人も多いかもしれません。
しかし、アニメ上の再現度は高く、聖地として巡礼する人も多いのだとか。
そのマンガ・アニメとは、2012年から連載を開始し、2016年にアニメ化・テレビ放映された「ろんぐらいだぁす!」(作:三宅大志 一迅社)です。
タイトルからもピンと来る方もいらっしゃるでしょうが、自転車(ロードバイク)の魅力にハマった初心者の女の子が中心となり、集まった仲間とチームを結成してサイクリングイベントへの出場を目指すお話です。
このアニメの話の中で、主人公たちは度々町田市や大和市に隣接する「境川サイクリングロード」を利用しています。
その際の待ち合わせ場所として「つきみ野」駅前の風景が登場するわけです。
(アニメ中では「ほしみ野」と駅名が変更されていますが、アニメの公式サイトではちゃんと「つきみ野」と明記されています)
注目の再現度合いに関しては、BD/DVDなどをご覧いただくとして、このような地域とのコラボにより、街の活性化が実現するのは地元住民ならずとも嬉しいことですよね。
さて、現代も現代からはじまった街の歴史、次のセクションからはより深い「つきみ野」エリアの魅力をご紹介します!

「つきみ野」誕生のカギを握る「多摩田園都市」計画とは?

「林間」エリアの街の歴史でもご紹介した「林間都市」と同様に、この「つきみ野」エリアも東急による「多摩田園都市」計画により開発された地域。
では、後に「中央林間」エリアも計画の一部となったこの「多摩田園都市」計画とは、いったいどんなものだったのでしょうか?
そのルーツは「中央林間」の回でもご紹介した、イギリス人エネベザー・ハワード(Ebenezer Howard)による「田園都市構想」(Garden City)。
その影響を受け、度重なる欧米への視察や訪問から、日本に田園都市を作る必要性にいち早く気づいたのは江戸後期~明治・昭和初期の政界・財界の超大物である「渋沢栄一」その人でした。
彼を中心に、日本で田園都市を実現すべく1918年(大正7年)に設立された「田園都市株式会社」は、かの「田園調布」の開発をはじめ、様々な事業を手掛けるだけでなく、後の東急(東京急行電鉄)や東急不動産の礎となった会社でした。
この「田園都市株式会社」から、後の東急グループにかけて進められた都市計画こそ、何を隠そう「多摩田園都市」計画だったのです。
「多摩田園都市」構想は1953年(昭和28年)に、当時の東急会長であった「後藤慶太」が発表した「城西南地区開発趣意書」が原型となっていますが、そのルーツははるか大正時代にさかのぼる、という訳ですね。

都市計画の要!「田園都市線」延伸物語 ~「つきみ野」に伸びるまで~

この「多摩田園都市」計画の大きな特徴に「新鉄道路線と新都市開発を一括して同時に行う」という点があげられます。
(しかし、大きな開発が行われていない「長津田駅」エリアや、東急自身が開発に携わっていないエリアなどの例外も「多摩田園都市」には存在する)
もちろん「多摩田園都市」の開発と共に進められた「新鉄道路線」とは、皆さんもすでにごぞんじの「東急田園都市線」。
しかし、その全線が全く新しい鉄道路線、というわけではありません。
現在の「田園都市線」は
① 既存の「玉川線・新玉川線」と呼ばれていた区間(渋谷-二子玉川)
(最も古い前身である「玉川線(渋谷-玉川)」の開業は1907年(明治40年))
② 東急大井町線(大井町-二子玉川)との複々線運転区間(二子玉川-溝の口)
(この「溝の口線」と呼ばれる区間は1927年(昭和2年)に開業)
③ 新設・または延伸予定区間(溝の口-中央林間)
(「溝の口-長津田」区間の開業は1966年(昭和41年))
の3つが総合して成り立っており、この内「多摩田園都市」の対象となっている区間は③にあたる「梶ヶ谷(溝の口の隣駅)-中央林間」部分でした。
ここで注目すべき点は「都市開発がはじまった当初から、中央林間までの延伸があらかじめ決まっていた」という所です。
「多摩田園都市」計画は最初の発表から3年後に計画の見直しがされ、1956年(昭和31年)に新たに「多摩川西南新都市計画」として生まれ変わります。
この「多摩川西南新都市計画」は4つの開発ブロックが設定されていますが、この内、第4ブロックには「大和市公所・下鶴間」地域が含まれています。
「え?確か『中央林間』って本来は『公所』って駅名になる予定じゃなかったっけ?」と思ったあなた、大正解です!
少なくとも1956年の時点では計画に含まれていた、という訳です。
これは驚くべきことですよね。
なぜなら、すでに「中央林間」には小田急江ノ島線の駅があり、「林間都市計画」が頓挫したとはいえ「小田急のおひざ元」といえる土地。
この計画に小田急も黙ってうなずくとは思えないでしょう。
しかし、東急は本気でした。
「田園都市線」開業のわずか2年後、1968年(昭和43年)には早くも「つくし野駅」を開通、4年後の1972年(昭和47年)には「すずかけ台駅」を開通、というように「中央林間」を目指して延伸を続けます。
察しの良い方はもうお分かりでしょう。
この急ピッチで進められた延伸計画により、この「つきみ野駅」が誕生することとなるわけです。

「つきみ野」開発の大いなる副産物 ~月見野遺跡群の大発見~

前のセクションでもご紹介した通り「中央林間」目指して延伸を進める東急。
早くも1967年(昭和42年)には「つきみ野」(当時の町名は「大和市下鶴間」)の開発が進んでいましたが、この年、まさかの事態が起こります。
開発地や造成地から旧石器時代(約9~8万年前~紀元前1万4000年頃)の遺跡が次々と発掘されたのです!
(この時の発掘物の多くは「つきみ野駅」から徒歩7分にある「つる舞の里歴史資料館」で現在展示されています)
当時発掘された中には「日本で最も古い土器のかけら」もあり、瞬く間にこのエリアは考古学をはじめ、様々な方面から注目を浴びることとなります。
これらの遺跡が開発にちなみ、「月見野遺跡群」と名付けられたことも追い風となったか、1970年(昭和45年)には、正式に「大和市つきみ野」という住所となり、それから6年後の1976年(昭和51年)とうとう「つきみ野駅」の開業を迎えることとなるのです。

実にシンプル?「つきみ野」命名の由来とは?

様々な道のりを経て、ようやく歩き出したわれらが「つきみ野」ですが、どうして「つきみ野」という名前になったのでしょうか?
その由来は実にシンプルなもの。
「開発以前、この地域に月見草が多く生えていたこと」がその由来です。
しかし、よくよく考えてみると、月見草が日本に持ち込まれたのは江戸時代、その後の明治時代に一般化した花なので、この地域に植えられたものがわずかな期間で爆発的に増えた、ということになります。
さらに掘り下げていくと、現在の「つきみ野」は古くは「下鶴間」であり、大山道の宿場町としても栄えた場所。
勝手な想像ではありますが、宿場町に滞在する多くの旅人の疲れを和ませるために、誰かが植えた月見草が増えていった、のかもしれませんね。
現在の落ち着いた佇まいの裏側に、激動の歴史を持っている「つきみ野」。
はるか昔、旧石器時代の頃から「住みやすい」場所であることは、多くの遺跡からも証明されています。
これからも発展を続ける「つきみ野」に住もう!住んでみたい!と思った方は、お気軽に当店までご相談ください。

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