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もっと知りたい!「相模大野」~街の歴史編~

2018-06-29

「地元密着!」を合言葉にお得なマンション・住宅情報をお届けしている「センチュリー21中央ハウジング中央林間店」がお送りするタウン情報、今回はもはや小田急線の重要拠点とも言える「相模大野駅」周辺エリアをご紹介します。 現在、小田原線と江ノ島線の分岐駅として、両路線の利用客で連日ごった返すこの駅も、むしろ小田急の中では新しく出来た部類に入りますが、どのようにして現在の姿に変わったのでしょうか? さて、さっそく駅にまつわる「歴史」のお話にまいりましょう!

 もともとは「大野村」だったんです… ~「相模大野」誕生前夜①~

この「相模大野駅」、その役割の重要性から、新宿近辺などの都心寄りに在住する小田急利用者でも駅の名前は知っている、覚えているという人も多いかと思います。
しかし「相模原市」が成立する前から、この地域に住む人々にとっては、この駅名も地名も、単なる「新参者」に過ぎません。
それもそのはず、昭和以前の歴史を紐解いてみると1889年(明治22年)に「高座郡大野村」と呼ばれる村が合併により誕生する以前は、「大野」という名前はこの地域に存在しなかったからです。
ただ、この「大野村」合併以前の各地を見てみると、「上矢部村・矢部新田村」のように「相模原市矢部」として現在も一部が残っている地名や「淵野辺村・鵜野森村」のように町名として現存する地名、そして「上鶴間村」のように江戸時代から現在まで長期間残り続けている地名と、まさに相模原最古参とも言えるそうそうたるメンバーが揃っていました。
通常、地名が長期間残り続ける条件の一つに「もともとの面積が大きいこと」が挙げられます。
これは、時代を経て、例え面積が狭くなっていってもその地名を受け継ぐ土地が残るためですが、前述のように、今日でも「名前が残り続ける」メンツが合併した「大野村」も同様でした。
これらの5つの地域が合併したのですから、広大なエリアが「大野」を名乗ることとなり、新参者ではありますが、後世に地名を残すための条件を得たわけですね。


 「大野村」に鉄道がやってくる! ~「相模大野」誕生前夜②~

このように発足した「大野村」、どれぐらい広かったかというと約25km2というから驚きですよね?(現在の品川区よりも大きい)
当時の高座郡ではもちろん最大の「村」であり、江戸時代から続いていた新田開発により、そのほとんどが「農地」となる一大「農村」でした。
このような状況を打開するだけでなく、遠く横浜方面や八王子への足となるべく、といえばこの時点ですでに気がつく人も多いはず。
そう、この「大野村」を最初に走った鉄道は、何を隠そうごぞんじ「横浜線」の「淵野辺駅」だったのです。(1908年(明治41年)、「横浜鉄道」として営業開始・当初は八王子で作られた生糸などを運ぶための貨物列車・ちなみに当時「大野村」や周辺区域も養蚕が盛んであった)
「相模大野」のご紹介だけに、これらについては多く説明しませんが、なぜ「淵野辺」か?というと、この地が「大野村」の中心部であり村役場が置かれていたということが挙げられます。(実際の役場は現在の「古淵」地域にあったが、当時は淵野辺の区域とされていた)
ただ、当時の「横浜鉄道」における隣駅は「原町田(現在の町田)駅」と「橋本駅」となるため、村内の交通事情にはあまり関係がなく、村中心部から離れた地域にとっては…。
という声に応えたわけではないでしょうが、大正を経て昭和を迎えようとしていた「大野村」にはすぐに次の鉄道がやってくることとなります。


 農村から軍都へ、変わりゆく「大野村」 ~「相模大野」誕生前夜③~

1926年(大正15・昭和元年)、すでに設立されていた「小田原急行鉄道(現小田急電鉄)」へ鉄道免許状が下付されることとなりましたが、なんと申請された区間は「高座郡藤沢町」から「大野村」。
さらに早くも翌年には、小田原線が全線一気に開業するというサプライズ!
にわかに盛り上がるか?と思われた「大野村」でしたが、開業時の全38駅の中には村内で停車する駅はありませんでした。
しかし、単なるぬか喜びには終わりません。
なぜなら、この2年後の1929年(昭和4年)、江ノ島線の開業に伴い、ようやく村内初の小田急停車駅「東林間都市駅(現東林間駅)」が誕生したからです。
この時、小田原線との分岐の為に「大野」の名前を冠した「大野信号所」も併せて誕生しましたが、この信号所こそ現在の「相模大野駅」のルーツ。
(当時の信号所は現在の駅施設から200mほど離れており、この場所は現在も「相模大野分岐点」として使用されている)
このさなか、東京から近く(小田急の輸送力も一役買った)、まとまった土地があり、価格も安いということから、豊かな農村だった「大野村」を含めた地域に目を付けたのは、何を隠そう「軍部」でした。
1936年(昭和11年)の陸軍士官学校を皮切りに、数々の陸軍施設が移転をはじめ、「軍部」による軍都計画まで持ち上がる始末。
(この地域が「相模原」と呼ばれ始めるきっかけが、この軍都計画でした)
この状況下で、1938年(昭和13年)軍施設の利用を目的とし「大野信号所」は「通信学校駅」として駅に昇格したは良いものの、それまで含まれていた「大野」の名は省かれてしまいました。
(この年、現在の「小田急相模原駅」も元祖「相模原駅」として開業)
しかし、1941年(昭和16年)、戦争への機運が高まる中、軍施設の所在地が知られることを恐れた陸軍は、駅名の変更を指示。
(同名駅の誕生により「小田急相模原」へ駅名変更したのもこの年です。)
とうとう、われらが「相模大野駅」がスタートを切ることとなったのです。


 相模原「町」の誕生を支えた立役者、「大野村」

さて、その後の「相模大野駅」発展のお話を進める上で、忘れちゃいけない重要な部分が「大野村」の顛末でしょう。
軍都としての役割を求められた、後の「相模原」の一角「大野村」は、計画の進展とともに村の存続すら揺るがす事態に巻き込まれていきます。
この頃、軍都としての都市計画をより強固なものとするため、隣接する村やその周辺地域がこぞって「合併」を推進し始め、軍部もこの動きを強力に後押し、したのは良いのですが、北部と南部に意見が分裂。
この対立により「大野村」は分裂の危機を迎えてしまいます。
このとき、北部地域は、現在の相原・上溝・田名などで形成され、対する南部は麻溝・座間・大和などのメンバー構成だったのですが、見事までに「大野村」を間に挟んでおり、当時の状況がいかに深刻だったかお分かりいただけるでしょう。
この騒動のさなか、「大野村」はすべてのメンバー(9町村)での合併を強く要望し、その考えを軍部が支持したこともあり、大和村(現在の大和市)が離脱したものの、残り8町村は合併に合意、合併後の市名の検討に入ります。
この時、候補として有力になったのが「相模原」でした。
前述の通り、軍都計画発足の時点で「相模原」と冠されていたこともあり、1941年(昭和16年)すんなりと「高座郡相模原町」が発足しました。
(実際にはどうも出来レースだったようで、それを察知していた小田急が先行して「相模原駅」を作った、という話もあります)
あれ?と思った方も多いかも知れませんね。
実は、この地域、大部分が「農村」であり内務省が「市」としての許可を出さなかったことから「相模原町」になってしまいました。
こんな風に、自村内だけでなく、周辺地域とのバランスを取りつつ発展を遂げ
ていった「大野村」も、その後「相模原市」に変貌を遂げる礎となり、今では相模原市中央区・南区の「大野・大野台・相模大野」として形を変え、その名を後世につなぎ続けているのです。
小田急小田原線・江ノ島線の切り替え駅として、そして市内随一の商業地域として広く知られるようになった「相模大野駅」。
その歴史はご覧の通り、全体の為に「つなぎ役」に徹してきた姿勢がうかがえます。
地域のために、住民のために頑張り続ける「相模大野」に住もう!住んでみたい!と思った方は、お気軽に当店までご相談ください。


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